ルアーでバスが釣れると聞いた村上少年、さっそく試してみたくなったが、どうやって釣るのかわからない。
「中学3年に進級するくらいにOくんという、塾の同級生がいて、バスをルアーで釣ったことがあるから『教えてあげる』と言われて一緒に行ったんですよ。そのときにルアーを造っていってそのルアーでバスを釣りました。ラパラの『ミニファットラップ』に似たルアーでしたね。これはたぶんまだ家にあると思います」
これが最初に造ったルアーかと思えば、初作はもっと前だという。
「ブルーギルがルアーで釣れると聞いて、小さくて泳ぐミノーならイケるだろうと割りばしで小さなミノーっぽいルアーを作ったんです。でも泳がせたら横を向いて全然泳がない釣れないルアーでした」
中学2年生から3年生までの1年間は、たくさんルアーを造っていたと村上氏。
これも誰かに造り方を習ったわけではなく、自分で素材を吟味して工程も考えていたという。
「進級したとたん、ガクンと釣りに行けなくなりました。中3なので受験勉強のタイミングだったんです」
こうして高校入学までは釣りにはたまに行く程度となった。
その後、志望した進学校に入学。
そこからはまた釣りにどっぷりとなり、地元はもちろん、たまに琵琶湖へもバス釣りへ行っていたという。
しかし陸からでは釣れないことも多かったそうだ。
そんなある日、なじみの釣具店のスタッフさんとの話から琵琶湖へ釣りへ行くことに。
「そのスタッフさんは毎週琵琶湖で手漕ぎのレンタルボートでバス釣りをしていたんですよ。ちょうどお店に行った前日に琵琶湖に行っていたので、『昨日はどうでした?』と聞くと『あんまり釣れない。40匹くらいかな』って言うんです。その数であんまり釣れないってどういうこと? って思うじゃないですか。お願いして連れていってもらうことにしたんです」
初のボートからのバス釣りは終始入れ食いだったという。それだけでなく50cmオーバーも釣れた。
「バスってこんなに釣れんの!? って驚きました。そこからは自分1人でも琵琶湖のレンタルボートに通うようになりましたね」
このときよく使っていたルアーが、ミスターツイスターの『サーシーシャッド』や、ジグスピナーなどのコンビネーションルアーだった。大人買いはできないので、5個買うのがやっとだったという。
「あと、ラパラの『シャッドラップ』がよく釣れるんですよ。でも当時の高校生には高かった。だからリップを長くしていい動きにしたルアーを造って持って行ってました。唐崎あたりでよく釣れるのは『唐崎スペシャル』とか、雄琴でよく釣れるのは『雄琴スペシャル』と呼んでましたね」
そうして通っていると、よく釣れるルアーにはバスが反応しやすい動きがあることに村上少年は気づいた
「8cmくらいのディープダイビングミノーがよく釣れたんですよ。50オーバーも釣ったし、48cmまでのバスもよく釣ってました」
このころは毎週末琵琶湖へバス釣りに行っていたという。
「当時は電車で片道590円だったんですけど小遣いが月に2,000円でしたから、すぐなくなるんです。どうやって費用を工面してたかというと、親に昼食代として600円もらうんですよ。300円の定食を腹が減るから2回行くと言って。でも実際は190円しか使わないで、410円ずつ貯めていくわけです。それで琵琶湖へ行って、ボートをレンタルして、ルアーを買ってました。そうしているとお年玉の時期が来て、それを加えて費用にしていましたね」
ネックだったのはレンタルボートが予約制ではなく、先着順だったこと。
「通っていたボート屋さんは最寄りの唐崎駅から2kmぐらいあったんですよ。みんな2人で来ていて、1人が走る係、1人が荷物運び係。僕は1人だから荷物を持って走る係に勝たないといけないわけです。だからどうやったら2kmを早く走れるかを体育の授業で真面目に勉強しました」
学んで実践していたのは「デッドポイント(※)をいかに早くクリアするか」だった。
早めにデッドポイントを過ぎるようにすることで2kmを安定したスピードで走れるようになって1着をとっていたという。
※)長距離を走るとき、序盤の息苦しい時間帯のことをデッドポイントという。これを越えると身体が順応して中盤から終盤にかけては大して息苦しくも感じなくなって走りやすくなる。
「荷物がコンパクトになるよう工夫したり、オールを漕いでいると手にマメができるから、自転車のグリップを切ってオールに被せたりとか、竿を置けるように船べりにテープで貼れる竿置きを造ってみたり、あと、2人で乗るときは傘を帆にして船を走らせたり、シーアンカーにして風で流されるのを抑えたりしていました。みんなの船は速く流されていくのに、自分の船はゆっくり流れるというのが楽しかったですね。レンタルするボートも30艇ほどある中で速く走らせることができるタイプがいくつかあったので、自分だけにわかる印を付けておくとか。とにかく工夫をしてました」
どうやったら現状を楽しめるかを見い出していたと村上氏(唐崎駅からの競争はのちにバイトをして、バイクを購入したことで解消された)。
「釣ることも、釣りに行くことも、ルアーを造ることも、その工程を自分で考えるのも楽しんでましたね。周辺の器具まで自分で工夫する。あのころはすべてをおもしろがって取り組んでいた気がします」
こうしてバス釣りにどっぷりとハマった高校生活だったが、このころ勉強が嫌いになっており、大学進学ではない道を模索しはじめていた。その選択がその後の人生にも大きく影響していったのだった。
続く