金曜の夜に琵琶湖にやって来ては、日曜の朝まで(たまに月曜の朝)釣りをして帰っていく釣りスタイルを続けていた村上青年。
まさに琵琶湖浸けである。
そんな釣りライフを4年ほど経たころ、当時、関西を中心に発行されていた、人気釣り雑誌「週刊釣りサンデー(以下:釣りサンデー)」の編集者だった服部氏からバス釣り取材の依頼がやってきた。
「これは僕が師匠と呼んでいる立田博さん(※)経由の話だったんですよ」
当時の村上氏は琵琶湖のほとりで立田氏が経営している釣具店にずっと通っていたという。
服部氏が立田氏に「オカッパリでワームを使ってよく釣っているアングラーはいないか?」と問い合わせたところ「大阪から毎週やって来てよく釣っているアングラーがいる」と村上氏のことを紹介したことで実現となった。
※)立田博氏:ハイチェストのウエーダーを履いて琵琶湖に立ち込み、ヘビーウエイトのルアーをロングキャストしてビッグバスを仕留めていたレジェンドアングラー。村上氏にも多大な影響を与えた人物
はじめての取材は実釣取材ではなく、電話取材だった。
記事が掲載されたのは、釣りサンデーが発行していた、バス釣りのムック「BASSCLUB(バスクラブ)」(※)。
こうして村上晴彦の名が初めてメディアに登場。1992年のことだった。
※)1991年から数年にわたって釣りサンデー編集部が発行していたバス釣りのムック
「これがこの業界に入る第一歩になりましたね。でも、これって急きょ決まった取材だったんですよ。僕の前に取材するアングラーが決まってらしいんですけど、都合が悪くなったのか取材できなくて僕になったんだとか」
もし村上氏の前に取材が決まっていたというアングラーが予定どおりに取材を受け、その後も活躍していたとしたら? 「村上晴彦」の名はこのタイミングでは世に出ていなかった可能性もあったのかもしれない。
ここから村上氏のアングラーとしての活動が目まぐるしいものへと変わっていくこととなった。
続く
続く