「ビデオ(K-GOODプランニング「ビバ! ウォーキング&バッシング」)をやっているときは、忙しいけど、本業も休みが取りやすい環境にあったのでいいタイミングだったなと思います」
そんな休みなき忙しい日々の中でも、いや、忙しくて脳がフル回転していたからかもしれない、村上青年の脳内には理想とするワームの姿が思い描かれていた。
それが村上氏のなにげない一言で実現することに。
「『こういうワームが欲しいんですよ』と、ビデオ制作と販売をやっていた『K-GOODプランニング』の人に言うと『さっそく作りましょう』と言われて、そこからトントン拍子に進みました」
『虫工房』というルアーメーカーが立ち上げられ、村上氏プロデュースの『常吉ワーム』が一般発売となった。
もともとは自分が使いたいので作ってもらった『常吉ワーム』だったが、想像以上の大ヒット。
その要因は、バスブームの牽引役でもあった、村上氏考案の「常吉リグ」の人気と適したワームというわかりやすさだろう。
読者の中にも使ったことがある、1匹目のバスは「常吉リグ」と『常吉ワーム』だったという方も多いのではないだろうか?
『常吉ワーム』の大ヒットで、村上青年の生活には大きな変化が訪れた。
それまで調理師として働いて得られる収入よりも、釣具販売で得られる収入のほうが上回ってきたのだ。
村上青年は、釣りに専念したほうがいいと考え、調理師を辞めてプロアングラーとして活動することを決意。
ついに「プロアングラー・村上晴彦」誕生である。
その後も好調な売れ行きを見せる『常吉ワーム』。
K–GOODプランニングは続いて村上氏プロデュースの『バスボックリ』『ザリコー』などをリリース。
いずれも大ヒットとなった。
このまま順調に進んでいけるものと思われたが、事態が一変。
ワームが大ヒットしたことで、K–GOODプランニングがいろんな事業へ進出したのだが、失敗してしまい、なんと会社が倒産の憂き目に遭うことに。
これは村上氏にとっても青天の霹靂だった。
その直後に『株式会社常吉』を、ある人物が立ち上げることになり、村上氏へも参加要請があったが、どうしても嫌だったという。
それはあくまで直感だったが、村上氏は直感に従ってひとまず別な策を講じることに。
「僕とK-GOODの残ったメンバーで『常吉パラダイス魚釣り研究所』という別の組織として動くことにしたんです」
しかしこの活動は1年ほどで終わりを迎えることに。
「常吉パラダイス魚釣り研究所」は株式会社常吉に吸収されることになってしまったのだ。
同時に村上氏も自動的に常吉のフィールドスタッフとして働くことに。
それが2002年のことだった。
ここからの10年は読者の多くも知ってのとおり、第2次バスブームの盛り上がりとともに「TSUNEKICHI」「村上晴彦」の名がそれまで以上に世に広まるとともに『浜ミノー』『浜シャッド』『ウオデス』など数々の銘作ルアーがリリースされた期間だった。
思いとは裏腹に順調に進んでいく株式会社常吉だったが、村上氏が当初に感じた嫌な予感はその後的中することとなる。
続く