調理師の専門学校へ入学した村上青年。専門学校時代、実は釣りにあまり行ってないとのこと。
さすがにそれまでと学ぶものが違っていたので苦労したのだろうか?
「そんなことはなかったんですよ。公衆衛生学、食品衛生学、調理理論とか、7科目あったかな。僕には全部理科だったんです。だからどの科目も勉強してないのに90点から95点取っていました。実技も入学前のバイトのおかげもあって、基本的なことは全部できる。卒業時の学校の総合成績は3位でしたね」
1位を目指せる位置にいたが、村上青年にはそんな気はさらさらなかったようだ。
「調理のことは楽しいからやってるだけで、競うことに興味がなかったんですよ。自分が楽しくて興味があることだけやっていました。それでも実技に関しては1位だったんですよ」
ならば釣りにも行っていそうなものだが?
「とにかく調理がおもしろくてそっちに興味が集中していました。釣りはヘラブナ釣りにたまに行くくらいでしたね。バイトも忙しかったし、賭け事(パチンコ)にハマッていた時期もありました。ビッグシューターの攻略法を見つけて、4ケ月連続で15万円勝ったりとかね」
※)平和工業(現:平和)が開発、発売したパチンコ機。当時は人気機種だった
興味が調理へ全集中。
このころの村上氏は釣りからもっとも遠かったかもしれない。
しかしこの学生時代に人生ではじめて悔しさを味わったという。
「調理師の専門学校生が料理の腕を競う全国大会が東京であって出たんですよ。結果は3位でした。僕は魚さばきがちょっと下手になってるかもと感じました。今思えばずっと実技1位やったからおごってたんでしょうね。バイトに精を出してたからおろそかになったとか考えると悔しかったんです。あれが人生で一番最初に悔しさを感じたときだったかも」
こうして、専門学校を卒業した村上青年は、料亭へ就職することに。
ここは月4回の交代制の休みで、忙しく、釣りに行っている間はなかったという。
「この料亭は1年で辞めて、次は割烹のお店に勤めたんですが、こっちは休みがちゃんとありました。釣りに行けるなと思って、ここからバス釣りに復帰しました」
新しい勤め先は、第2土曜と第3土曜と日曜、祝日が休みだった。
連休もとれたので琵琶湖釣行もしやすい。
村上青年は琵琶湖通いを再び開始。
そのペースはまさに村上晴彦らしいものだった。
「金曜日の晩に大阪を出て琵琶湖に入って、日曜の朝か月曜日の朝に帰るっていうのを繰り返していました。4年くらいやってましたね」
勤め先である割烹は大阪中央区本町にあった。村上青年は水曜日のお昼休憩のときに、同じく中央区にある老舗ショップ「フィッシングサロン心斎橋」へ釣具を買いに出かけていた。
「割烹のおやっさんのバイクを借りて釣具店に行っていました。水曜に釣具を買って、木曜日のうちにいろいろ仕込んで、金曜日に仕事が終わったら、夜中のうちに出発できるように車を準備してました。琵琶湖に着いたら夜中釣って、朝釣って、昼はちょっと寝て、昼過ぎに釣れたらセコ釣りをする。で、夜に大きいバスを狙う。ほとんどの人は日曜日の朝に来るから、僕はそのタイミングで帰っていました。だから道が混まないでささっと大阪に帰れていました」
こんな釣りを4年間ほど繰り返していれば当然目立つ存在になる。
そんな中で村上青年はある人物と出会うのだった。
続く