【おそるべしスーパーセコ釣り】の大ヒットから村上青年の生活はより慌ただしさを増していった。
まず「週刊釣りサンデー」の主導で2本バス釣りのビデオを制作。
これも大好評だったので村上青年にあるオファーが舞い込んだ。
「『K-GOOD プランニング』という会社から、独自でビデオを売りたいので、レギュラー出演してもらえないか? というオファーでした」
なんと毎月撮影して毎月1本ビデオを発売するというスケジュール。
現在のようなネット配信、撮影機材に編集ソフトがあれば月1本どころかもっと早いペースも可能だろう。
しかし時は1990年代後半。
記録媒体はビデオテープ。SDカードのように大容量ではないので釣行の模様を撮っていくとテープ5本でも利かないこともある。
編集も専門の業者が少ないので出来上がるまでに時間がかかる。そのうえビデオを量産して店頭へ配布しなければならない。それを月1本のペースで行うのだ。実釣に割ける時間は非常に少なかった。
こうして恐るべき毎月ビデオ撮影&販売がスタート。村上青年のルーティーンとなった。
このころの村上青年は大阪から滋賀へ移住しており、調理師を本業としつつ、休みの日をアングラー活動に当てていた。
「休みをうまく釣りに当てていたから動きやすかったかな」
それはつまり休みはいっさいなかったということになるのだが……。
ビデオのタイトルは【ビバ! ウォーキング&バッシング】。
本当に月1本ペースで制作し続けてなんと2年継続。計24巻発売された。
ホームの琵琶湖だけでなく、関東の霞ヶ浦へも釣行。毎月東へ西へ行ったり来たりしていたという。
「当時は毎月発売するバス釣りのビデオなんてなかったし、映像では霞ヶ浦でも琵琶湖でも僕がボコボコ釣ってるから、目立ったんでしょうね。ダイワさんから商品提供のお話がやってきたんですよ」
これがダイワ(グローブライド株式会社)とのはじまりだった。
ちなみに同時期に某メーカーからアングラー契約の話があったが、『すべて自社製品を使うこと』が条件だった。
一方、ダイワは『使いたいものだけ使ってもらえばいい』という条件だった。
「当時、竿はダイワ製品でリールはシマノ製品だったんですよ。シマノさんのリールが手に合っていたからなんですが、ダイワさんは『それでもいい』って言ってくれたんです。今じゃあり得ないでしょうね。ただの若造にありがたい話です」
釣りに制限をかけられたくなかった村上氏はダイワの懐の広さを感じて契約を結んだ。
もしこのときダイワも『すべて自社製品を使うこと』という条件だったら、村上氏はきっとNOと答えていたに違いない。
そうなると『ハートランド』の誕生はなかったかもしれないし、村上氏が携わったリールも違った形になっていたかもしれない。
ダイワと村上晴彦、運命的な出会いだったといえよう。
こうしてダイワとの契約後も他社のリールを使うというスタイルを継続。
それはそれで諸問題もあった。
「当時、ダイワカタログに僕が釣りしてるところを載せてもらったんですけど、リールがシマノ製品でしょ。フッキングしてのけぞってるところに「村上晴彦のけぞる」っていう文字を入れてシマノリールを隠していました」(笑)
現在なら考えられないが、それだけダイワが村上青年に期待していたといってもいい。
こうして調理師とアングラーという二足の草鞋を履いて休みなき生活を過ごすうちに、村上青年の脳内には理想とするワームの姿が浮かび上がっていた。
それが製品化されることになり、ついに完全なるプロアングラーとしての活動へと切り替わっていくことになるのだった。
続く